御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ


聖バルビナおとめ    St. Balbina Virgo                          記念日 3月31日


 聖女バルビナは2世紀初めの人である。父はクイリノのいいローマ帝国の軍人で、大佐まで昇進した。父も娘も最初は偶像教の信者であったが、後には共にカトリック教に入り、二人ながら聖人の列に加えられたのは、いかにも恵まれた親子ではないか。バルビナはその少女時代器量も美しく、才能も豊かであったから、父も殊の外寵愛すれば多くの青年達も想いを寄せ、殊にその家は富んでもいたので、縁談は降るようにあった。しかし諸行無常のたとえに漏れず、思いがけなくも彼女は首に悪声の腫物を生じ、それ以来うってかわった醜い容貌となり、恥ずかしさのあまり人目を避けねばならぬほどになった。父はこれを大いに悲しみ、方々の医者にかけるやら様々の薬を試みるやら、神々に祈願をこめるやら、まじないをさせるやら、百方治療の手をつくしてみたが、一向効果も見えなかった。

 ところがちょうどその頃キリストの聖名が津々浦々にまで響き渡り、その奇跡の評判も天下に高かったので、クイリノは遂にもしローマなるキリスト教会の頭に、娘の病を癒してもらえたら、一家全部聖教を信ずるという誓いを天主に立てたのである。時あたかもハドリアノ皇帝の迫害最中で、教皇アレクサンデルは獄中に捕囚の身であったが、クイリノが娘バルビナを連れて面会すると、その誠心を知って一心に天主に祈った後、おのれの手を捕縛している鉄鎖を娘の患部に触れたところ、やがて病全く癒えてバルビナはもとの美しい少女となることができた。

 親子の者は驚喜して手の舞い足の舞い踏むところを知らず、感謝の言葉諸共教皇の前に平伏し、その鎖に接吻した。そして彼の勧めに従い先の誓いのままに、すぐ一家こぞって聖教の研究を初め、間もなくめでたく洗礼を受け、新生涯に入ったのである。
 バルビナ全快の評判がたちまち市中に伝わると、前に彼女の醜さを嫌って寄りつかなくなった渇仰者たちが又もうるさくつきまとい、愛を言い寄るようになった。けれども既にキリストの愛を体験したバルビナには、最早この世の愛など顧みる心は少しも起こらず、一身を主に献げて終生童貞を守る堅い決心を立てたのであった。
 それには受洗後間もなく、火をともした白ろうそくを手にした一位の天使が彼女に現れ、キリストの浄配となる事をすすめたという伝説もあるが、とにかく浮き世の物事のむなしさはかなさを知った彼女が、永遠を目当てに聖い生涯を送ろうと思い立ったのはごく自然な事であった。かくて彼女は日毎キリストに仕え、これに愛を示す為に慈善の業につとめるのを自分の仕事としたのである。しかしクイリノ大佐の一家がキリスト信者になったという事実は、その内その筋に知れずにはいなかった。クイリノは早速法廷に召喚され、判事アウレリアノの峻厳な取り調べを受けたが、彼ははばかる色もなく自分の信仰を申し立て、遂に殉教の栄冠を得た(3月30日)。それから間もなく娘バルビナも父の後を追って天国に行き、かくてこの聖なる親子は永久に相別れる事なき再会を楽しみ、共に天主を讃美し奉る身となった。

 その後聖女バルビナの雄々しい信仰の徳を追慕するあまり、ローマの信者はアヴェンチノの丘に一つの記念聖堂を建てた。バルビナ聖堂はすなわちそれである。


教訓

 宗教の目的は決して病気を癒したりする事ではない。しかし宗教の力で病気が治った為に人が信仰の念を起こしたり或いはこれを深くする事はしばしば世上に見受ける所である。聖女バルビナも難病に罹ったのが機縁となって、永遠の幸福を勝ち得るに至った。さればこの場合世人に禍とのみ思われている病気は、決して禍ではなかったのである。天主の思し召しは測り難い、故に我等も病床に就くような時、いたずらに天主を怨むよりも、むしろその無限の御憐れみを信じ、その御摂理に任すのが良いのである。